八栗寺の歴史

【八栗寺の歴史】この山は古くから修験道の中心地で、多くの修験者が峰々を飛び回っていた。平安時代、青年空海(弘法大師)もこの山に修業に訪れた一人であった。何かにひかれるように空海がここを訪れたときのこと。突然、蔵王権現さまが目の前に現れ、「この山は仏場にたえる場だ。寺を建て三宝(仏・法・僧)をあがめれば、常に我は擁護する」と告げられた。

第一章

七日目明星、二十一日目に五剣降る。

思いを凝らした青年・空海は、虚空像菩薩の真言を百万遍唱える「求聞持法」をこの地で修行した。すると………七日目に明星が来影し、二十一日目には天から五振りの剣が降ってきた。五つの峰にその五剣を埋め鎮護として、大日如来像を刻んだことから、この山を五剣山と名づけた。この地が霊地であることを確信した空海は、お堂を建て、彫った千手観音をまつり、そこから、八つの国が見渡せたことから「八国寺」と名付けられた。空海が唐に渡る前に再び来山し、入唐求法の成否を占うために植えた八個の焼き栗が、帰国後訪れるとすべて成長繁茂していたことから、「八栗寺」と改名した。

第二章

戦火に包まれる諸堂。

天正年間、長曾我部元親が八栗城(城主中村宗ト)を攻略の時、戦火により八栗寺本堂をはじめ諸伽藍も焼失した。のち、文禄年間無辺上人が本堂(三間四面)を再建した。

第三章

江戸時代、歓喜天をまつる「聖天堂」の誕生。

御水尾天皇の皇后東福門院から賜った弘法大師作「歓喜天」を安置する場所を求めて四国を巡っていた木食以空上人が「この山こそ天尊勧請相応の霊地」と強く感じ、延宝五年(1677年)に本堂横の岩窟に歓喜天を祀る。日本最古のお聖天さんとも言われる由縁である。
詳しくは「八栗のお聖天さま」へ

第四章

高松藩の祈祷所拝命。

八栗寺を深く信仰していたのが江戸時代の讃州高松さま。
初代高松藩主松平頼重公が本堂を再建し、大師作の聖観自在菩薩を本尊として安置した。
「観自在院」と称する「祈願所」に。
元禄時代には「高松藩専属の祈祷所」となり檀家勤めがなくなる。
宝永三年(1706年)、史上最大級の宝永地震が起き、五剣山の東の一峰が中腹より崩壊し、いまの姿に…。
八栗寺も地震で被災したものの、宝永六年(1709年)三代藩主松平頼豊公により本堂をいまの位置へ移設し伽藍を修復。
延宝二年(1745年)には五代藩主松平頼恭公筆の「大悲殿」*の額がかけられた。
その後も高松藩の支援のもと伽藍の修復などが進む。また、修験者の名残として天狗をお祭りする中将坊堂が建てられた。
詳しくは「八栗の天狗さま」へ

本堂の屋根や幕には葵の紋が入り、本堂の天井には高松藩絵師による龍図が描かれた。

第五章

祈りの寺八栗寺として現在に。

千二百有余年前、空海が訪れた霊峰五剣山の中腹にある境内には、高松藩松平家の葵の紋のある本堂、人の喜びを歓びとする日本最古といわれる歓喜天をお祀りした聖天堂、青年空海をお祀りする大師堂、天狗の中将坊をお祀りする中将坊堂などの諸堂がある。
本堂のそばには、昭和の文人で能書家で歌人(秋艸道人)で早稲田大学名誉教授の會津八一(あいづやいち)の歌が刻まれた美術梵鐘がある。真言宗大覚寺派で四国霊場八十五番札所八栗寺には多くの参拝者が来て、八栗さんとして親しまれている。
詳しくは「八栗寺の鐘」へ