八栗寺について

八栗寺の歴史と成り立ち

八栗寺の名

青年・空海は、虚空像菩薩の真言を百万遍唱える「求聞持法」をこの地で修行しました。始めて七日目に明星が来影し、二十一日目には天から五振りの剣が降ってきました。五つの峰にその五剣を埋め鎮護として、大日如来像を刻みました。この地が霊地であることを確信した空海は、千手観音を彫ってお堂を建てます。山頂からは、八つの国が見渡せたことから「八国寺」と呼ばれていましたが、空海が入唐救法の成否を占うため植えた「八個の焼栗」が生長繁茂したことから「八栗寺」と改名されました。

日本最古のお聖天さま

戦国時代、長宗我部元親が八栗城を攻めてきたとき、八栗寺も戦火に包まれましたが、無辺上人により本堂が再建されました。弘法大師作「歓喜天」を安置する場所を求めて四国を巡っていた木食以空上人が「この山こそ天尊勧請相応の霊地」と強く感じ、延宝五年(1677年)に本堂横の岩窟に歓喜天を祀りました。日本最古のお聖天さんとも言われています。秘仏であり、50年に一度開帳されます。次回は2027年の予定です。

高松藩専属の祈祷所に

江戸時代、讃州高松さまは八栗寺を深く信仰していました。初代高松藩主松平頼重公が本堂を再建し、大師作の聖観自在菩薩を本尊として安置し、「院観自在院」と称する「祈願所」としました。元禄時代には「高松藩専属の祈祷所」となり檀家勤めがなくなりました。宝永三年(1706年)、史上最大級の宝永地震が起き、五剣山の東の一峰が中腹より崩壊し、現在の姿となりました。八栗寺も地震で被災しましたが、宝永六年(1709年)三代藩主松平頼豊公が本堂をいまの位置へ移設し伽藍を修復しました。延宝二年(1745年)には五代藩主松平頼恭公筆の「大悲殿」*の額が本堂にかけらるなど、その後も高松藩の支援のもと伽藍の修復などが進められました。本堂の屋根や幕には葵の紋が入り、本堂の天井には高松藩絵師による龍図が描かれています。

修験道の名残り「天狗」伝説

八栗寺の後ろにそびえる五剣山は、八栗寺創建以前から修験の行者の修行地です。青年空海が訪れたのも修行のためであり、当時は多くの修験者が五剣山の峰を修行して回っていたと伝えられます。
八栗寺では、そんな修験者の名残りから、天狗をお祀りする「中将坊」堂があり、除災招福・健脚祈願にご利益があります。

八栗寺のご案内

本堂

本堂

天正年間、長曽我部元親の軍勢が八栗城を攻め、本堂はじめ諸伽藍が焼失しましたが、文禄年間に無辺上人が本堂(三間四面)を再建しました。八栗寺は、高松藩松平家と深い関わりがあります。本堂は江戸時代に修復され、屋根や幕には葵の紋が入っています。本堂は毎年正月3が日に開扉されます。本堂の天井には高松藩絵師による龍図が描かれていますが、龍は水を司るところから火事を防ぐお守りの意味もあります。本尊は聖観自在菩薩で、御真言は「オンアロリキャソワカ」です。

聖天堂

聖天堂

「お聖天さま」はほら穴の中に祀られており、御真言は「オンキリクギャクウンソワカ」と唱えます。お聖天さまが勧請されて以来、八栗寺では毎朝御祈祷が行われます。「歓喜天」の右には「十一面観音菩薩」が祀られています。
<お聖天堂の歴史> 延宝四年(1676年)木食以空上人(もくじきいくうしょうにん)は、後水尾天皇の皇后である東福門院(徳川秀忠・江の娘)より賜った、歓喜天をお祀りする場所を探し四国行脚していました。厳しく神秘的な五剣山の山容を拝して、この山こそ「天尊勧請相応の霊地」と悟ります。そして、本堂横の岩窟が凡庸ではないことを見て意を深くし、延宝五年(1677年)にお堂を建てました。

中将坊堂

中将坊堂

本堂左奥の石段を登れば、中将坊堂があります。堂は五剣山の崖にへばりつくように建っていて、その中に讃岐三大天狗の一人「中将坊さま」が本尊として祀られています。除災招福・健脚祈願などのご利益があります。天狗は修行者のシンボルで、八栗寺が古くから山岳修行の場所だったことを物語っています。夜ごと山から下りてきて、民のために良いことをして朝帰る天狗さま。その証拠に、中将坊堂脇に下駄を奉納し翌日下駄が汚れていれば中将坊が働いてくれた印だといわれています。

二天門

二天門

二天門には、天部の仏神で四天王の一尊「持国天」と「多聞天」が祀られています。また、ここから仰ぎ見る五剣山は迫力があります。

護摩堂(通夜堂)

護摩堂(通夜堂)

歓喜童子(お聖天さまの子)が祀られており、毎月15日・月末午後7時から聖天尊護摩供養がここでおこなわれています。納経所の隣にあり、護摩祈祷所や鐘の拓本、天狗の面などがあります。

写経室

写経室

八栗寺は、心経写経の根本道場嵯峨御所大覚寺の末であり、写経に力を入れています。
写経室では毎日写経ができます。書き終えた写経は、お聖天様に御祈祷の後多宝塔に納められます。希望者は納経所に申し込みください。
▶多宝塔へ

十一面観音

十一面観音

十一面観音菩薩は、お聖天様の本地仏であり、衆生の迷いを救い、願いを叶えて下さいます。昭和五十一年(1976年)に寄進されました。背面の地層は、1000万年以上も前のものです。

聖観音

聖観音

聖観音は、本堂と随求菩薩の間にあります。昭和四十七年(1972年)年寄進されました。

随求(ずいぐ)菩薩

随求菩薩

随求菩薩は、観音菩薩の変化身とされます。大随求菩薩ともいい、人々の求願に随い施し与えることから「随求」と名づけられています。菩薩の周囲を“南無随求菩薩”を3辺唱えて回ってお願いをすれば、願いを何でも叶えてくれると言われています。

鐘楼堂と梵鐘

鐘楼堂と梵鐘

鐘楼堂は、寛政3年(1791)建立し、鐘は太平洋戦争で供出されていました。住職・中井龍瑞は、鐘を復活させようと思案していた折、松坂歸庵師の勧めで、歌人であり能書家として名声高い會津八一氏(当時は早稲田大学名誉教授)に銘と歌を依頼しました。

わたつみの そこゆくうをの ひれにさへ ひひけこのかね のりのみために

平和と鎮魂の願いが込められたこの鐘の音が、海の中の魚のヒレまで響いてくれよ、という意味です。鐘には、竹内清画伯(二科会会員)により五剣山と波文・雲文模様が、刻まれているところから「美術梵鐘」としても有名です。昭和三十二年(1957年)に完成し、撞初(つきぞめ)式が行われたときには、雨が降り出し、地面が揺れたということから「天雨地動の霊鐘」とも呼ばれるようになりました。現在、参拝時には鐘をつくことができ、また、大晦日には参拝者108名によって除夜の鐘がつき鳴らされます。

※會津八一氏は、雅号を秋艸道人(しゅうそうどうじん)といい、明治から昭和にかけて活躍した歌人・書家です。歌碑はふるさとの新潟をはじめ、奈良の東大寺・唐招提寺・薬師寺など、東京の早稲田大学、大阪の四天王寺などにあります。梵鐘は八栗寺のみで、彼の遺作となりました。現在、新潟市と早稲田大学には「會津八一記念館」があります。

木食以空上人像

木食以空上人像

天尊行者として名高かった木食以空上人が八栗寺に歓喜天を勧請し、寺の繁栄の礎を築かれたことをたたえて、昭和四十年(1965年)に建立された像で、姿は上人の自画像をもとにしています。ちなみに、肉類や五穀を食べず、木の実や草などを食して修行することを「木食」といいます。※題字は中井龍瑞。

地蔵堂

地蔵堂

地蔵菩薩を祀り、子授けにご利益のあるお地蔵さまといわれています。
地蔵菩薩の御真言は「オンカカカビサンマエイソハカ」です。5月には、藤が美しく咲きます。

十二支一代守御本尊

十二支一代守御本尊

五剣山を模したミニ五剣山の前側には八角柱の台座と写経を納めた石室があり、上にはブロンズの十二支尊像が祀られています。ブロンズの十二支尊像は、新田藤太郎氏の最晩年の作。高松中央公園前の菊知寛像の作者でもあります。
◯十二支尊像は子年が弥勒菩薩、丑年が勢至菩薩、寅年が阿弥陀如来、卯年が聖観世音菩薩、辰年が如意輪観音、巳年が虚空蔵菩薩、午年が地蔵菩薩、未年が文殊菩薩、申年が大威徳明王、酉年が普賢菩薩、戌年が大日如来、亥年が釈迦如来となっています。

大師堂

大師堂

昭和初期に建立された総欅(けやき)造りのお堂で、青年時代の修行僧の弘法大師が祀られています。お釈迦様の誕生された4月8日の花まつりと、大師の誕生された6月15日の青葉まつりには、甘茶が接待されます。お大師さまの御真言は「南無大師遍照金剛」です。

多宝堂

多宝堂

昭和五十九年(1984年)、大師入定1150年の御恩忌に建立されました。朱塗りの鮮やかな三面四面の総桧造りの鎌倉様式の建物で、本尊は昭和の大仏師・松久宗琳(まつひさそうりん)作の金剛界大日如来(丈1尺8寸)です。内部には尊勝曼荼羅と、八祖大師と十二天が極彩色で描かれています。多宝塔には写経が納められています。正月三が日は開扉されます。

八十八ヶ所石仏霊場

八十八ヶ所石仏霊場

大正時代に高幡龍騰の発願で大師信徒たちが、五剣山の山中に八十八の石仏を祀りました。平成16年(2004)弘法大師入唐1200年記念に、山中に点在していた石仏を一か所にまとめて奉祀したのがこの石仏霊場です。雨が多い時期には、時折小さな滝があらわれたり、秋には紅葉が美しい場所でもあります。

亀の子岩

亀の子岩

亀の頭の下には石仏が祀られ、長寿にご利益があります。八十八ヶ所石仏霊場の隣にありますので、ぜひ訪れてみてください。

御成門

御成門

高松藩の藩士が八栗寺に来られた時に通っていた門。本坊の山門を入ったところにあります。唐破風様式・桧皮葺きの建物で、屋根には葵の紋が入り、彫刻は左甚五郎の末裔の作といわれています。

賽の河原

賽の河原

表参道のお迎え大師の手前にお地蔵様が立ち並ぶ「賽の河原」があります。ここは、人間界と聖地の境目と言われています。

お迎え大師

お迎え大師

表参道を歩いて参拝する人々をお迎えするということから「お迎え大師」と名づけました。弘法大師の若々しい風貌は、大師堂の本尊の模刻です。八葉蓮華のかたちをした展望台で、ここからは高松市郊外はもちろん、晴れた日には金毘羅の象頭山や徳島県の剣山までも見渡せます。

おはつきいちょう

おはつきいちょう

通夜堂の横にあって、たいへん大きな銀杏です。葉に実がつくことから「おはつきいちょう」といわれています。12月初旬に黄色く色づく、香川県の保存木となっています。

菩提樹

菩提樹

この樹は、弘法大師のお手植の菩提樹のひこばえです。菩提樹はお釈迦さまがその下で悟りを開いたとされる聖木で、毎年6月中旬になると、淡黄色の花が房状になって垂れ下がり、いい香りを漂わせます。落葉の頃には、菩提子という硬い実をつけます。菩提樹の花言葉は「夫婦の愛・結ばれる・熱愛・結婚」で、葉はハート形をしていますので“縁結び”にご利益があるかもしれません。

八栗ケーブル

八栗ケーブル

八栗寺には、麓からレトロなケーブルカーで登るのが便利です。登山口駅から山上駅まで約4分。この間は、春は桜、秋は紅葉など山の木々や風景が楽しめます。

<八栗ケーブルの歴史>
戦時中、ケーブルは供出され閉鎖されていましたが、昭和三十九年(1964年)12月28日東京オリンピックの年、初代の新幹線に似た車体デザインで再び運行を始めました。八栗ケーブルは、平成二十六年(2014年)に創業50周年を迎えました。

表参道

表参道

表参道は、八栗登山口駅の左から登り、賽の河原、お迎え大師、二天門を経る遍路道のルートです。途中、左右に石仏や四季の草花、野鳥のさえずりや風景などを楽しみながら登ることができます。

裏参道

裏参道

裏参道は、八栗山上駅から東へと抜ける遍路道で、志度寺へと続いています。途中には1185年の源平屋島の合戦の時、義経一行が登って戦略を立てた「源氏が峰」を仰ぎ見ることができます。